「彼」は月1回通院している病院の担当医であるドクター・スノウや、そこでのソーシャルワーカーの人たちには自分の身体の状態については相談できるけれども、生活や心の相談までは出来なかった。

現在のHAART療法とは違い、
当時のAZT療法ではHIVウィルスの増殖を一時的には抑えることが出来たけれども、免疫力(CD4の値)の回復までは難しく、また時間が経つとウィルスは薬剤耐性を持つようになって薬が効かなくなっていた。

また、AZT薬そのものが副作用が強く、ただでさえHIVウィルスによって免疫力が破壊されいている状態で、この薬自体の副作用によって免疫力が下がっていくという悪循環に陥っていた。

当時のHIV陽性者、エイズ患者たちは、
「明日はどうなるか分からない」という状態を抱えて過ごさないといけなかったわけだ。

前にも書いたけど、「彼」もこう語っている。

『いつ何時も頭を離れない不安とつきあいはじめた。その不安は歯を磨くときから、ご飯を食べ、ドアを開け、車のハンドルを握り、テレビを見、シャワーを浴び、眠りに落ちるその一瞬一瞬のすべての時間、ぼくの脳裏にドッシリと腰を下ろしていた。』

『その不安はいつもぼくの耳元でつぶやいていた。
いつ発病するんだろうか。いつ死ぬんだろうか。あした死ぬんだろうか・・・。』





現在と違って、当時のHIV陽性者、エイズ患者の人たちを取り巻く状況はあまりにも過酷だった。

当時はCD4の回復も見込めず、治療を始めたからと言っても、ゆっくりと徐々に免疫力が低下していっていたわけだから。「明日にはどうなるか分からない」という、とにかく不安でしょうがない状況だったと思うんだ。

自分の身体がこの先、どうなっていくのか分からない恐怖に怯えながら、
つまり「自分の中でも消化しきれないもの」を抱えて生活していたわけだ。

当時は、HIV陽性者、エイズ患者の人の中には、こういう自分の中で消化し切れない不安や恐怖を抱えながら、
それを他人に相談するとか告白する為の、心の区切りというか、決断が出来ない人が多かったのではないかと思うんだ。

ただでさえ、HIV、AIDSには当初から偏見や差別がまとわりつき、またゲイの人では「自分がゲイである」という事実も、HIV、AIDSへの偏見や差別とは異なる、別の偏見や差別を抱え込んでいるわけだから。



「彼」はこういう自分の中で消化しきれない不安や恐怖を抱えて、周囲の日本人には信用を置けず、またネイティブのHIV陽性者の人たちとも距離を置きながら、
アメリカで孤独に闘病していくことになるんだ。



しかしながら、「彼」は心の状態はそうであっても、やはり自分の身体やHIVについての情報が欲しかった。
自分の本心をさらけ出せる人がいたわけではなかったが、「恐る恐る」の状態でいくつかの情報へアクセスしていく。
(もっとも、当時はインターネットサービスがなかったので、ネット検索ではない)



「彼」の情報源の1つはフリーペーパーだった。

月1回通院していた病院の待合室にフリーペーパーが置かれてあった。
それはHIV感染者、エイズ患者をサポートするためにサポートグループが
毎月発行しているフリーペーパーだった。

「ビーイング・アライブ」という名がつけられたそのフリーペーパーは
待合室の片隅にいつも積み上げられていた。(「ビーイング・アライブ」は「生きているんだ」という意味)

「ビーイング・アライブ」には医学的なエイズ治療の実態や新薬の開発情報、下痢の克服の仕方、感染症との闘い方、太るための食事療法などが細かく載ってあったようだ。
またエイズ研究のためのボランティアになってくれる感染者募集の広告もあったようだ。

興味深いのは、長年感染していても発症していない感染者や発症しても長い間生き延びている患者の投稿など、いわゆる「ロングサバイバー」たちの情報も載っていたようなんだ。



「彼」は月1回の通院のたびに、待合室でこのフリーペーパーを持ち帰るようになる。




このフリーペーパー以外の「彼」の情報源は、ある日本人エイズ・カウンセラーから色々と教わることだった。
「彼」は基本的にはHIVサポートグループのミーティングなどには行かなかったみたいだけれども、アメリカ人の知人から、ある日本人のエイズ・カウンセラー(この人もゲイの人)が行う数人規模のHIVミーティングに参加するように勧められる。

「彼」は、そのミーティングにもあまり気乗りはしなかったみたいだけれどもとりあえず行ったようだ。

『ぼくは元来、何ごとにたいしても猜疑心の強い人間だけれど、感染してからはいっそうそれが強固になっていった。その人がほんとうに信じられるのだろうか、といつもどこかでビクビクしていたのだ。』


(この日本人エイズ・カウンセラーは、この本の著者へ「彼」のことを知らせたカウンセラーとは違う人なのだけれども、おそらくこのとき会ったカウンセラーと、同業種というカウンセラー繋がりで、
後々、著者のもとに「彼」の話がいくことになる。)

しかし、いざ会って喋ってみると「彼」は安堵感を覚えた。

『ぼくは彼にずいぶんいろいろなことをしゃべった気がする。やはり、話し相手が同じ日本人で、しかも日本語で話ができるというのはぼくにはうれしいことだった。
それまで背負ってきた大荷物が一気に下ろせたような気がした。』

「彼」はその後も、何度かこの日本人カウンセラーにお世話になる。

しかし、「彼」にとってはこのカウンセラーの人は、まだかろうじて心が許せる人であり、友人だと思っていたのだけれども、後々、このカウンセラーに結構ドライなことも言われてしまう。


『ぼくはこの病気になってから、日本語でだれかとしゃべりたくなったとき、頻繁に彼に電話をしていた。日本人で心から話せるのは彼しかいなかったからだ。』


しかしながら、何時間も電話してくる「彼」に対してこのカウンセラーはこう言ってしまうのだ。


「ぼくはあなたのカウンセラーであって、友達ではないんだから。
ぼくはヨースケが病気のことで、たとえば、病状をうまく英語で説明できないときには助けてあげたい。でも、友達としてヨースケの日常の話を聞いてあげることはできないんだ。カウンセラーとしては、だれかひとりの患者だけをえこひいきすることはできないんだよ。
それがクリニックのポリシーでもあるんだ。残念だけど・・」






「彼」が自分で勝手に友人と思っていた人はカウンセラーという医療関係者だったわけで、
サポートはしてくれるけれども、「彼」の友人ではなかったわけだ。


「彼」はこういう孤独な状況に置かれていたのだ。





では、このような孤独な状況へ「彼」を追いやったのは、一体何が原因だったのだろうか?



プライバシーを尊重しない周囲の日本人のせい?
彼の英語力の低さのせい?
医療関係者が専ら、身体についてのサポートしかせず、生活や心の相談にはのってくれないせい?
「彼」がアメリカに渡ったせい?


これらのどれも間違いではないだろうけど、これらは表面上の理由や問題点でしかないと思うんだ。
こういう問題が生じるための、もっと根本的な何かが「彼」にはあるような気がするんだよね。


この本を、注意深く読むと、「彼」の心の奥底にある気持ちが見えてくるんだ。


そして、それは「クローゼット」のことと関係してくるんだ。



「彼」は自分がゲイであることをどう思っていたのか?
どういう心の態度だったのか。



この本の中で「彼」が、それらについて触れている部分を書いていこう。


LGBTではない一般の人には、LGBTの人へ嫌悪感を抱く人と、好意を持っている人がいると思うけれども、
好意を持っている人の中でも単純に軽く「そういう人がいても別に、良いんじゃないの」と考えている人もいると思うんだよね。

「カミングアウトしたら良いじゃん」って感じで軽く考えている人もいるかも知れないね。
しかし、LGBT当事者が抱える気持ちは、そう単純なものではなくもっと複雑なものなのだと思う。

また、渡米してそこで生活しているゲイの人のことを、単純にイメージすると、何かその人のことを「自分のことを肯定している」「オープンな」ゲイの人というイメージを勝手に抱いてしまうかも知れない。
海外のゲイ街で遊んで、ゲイパレードに参加して、伸び伸び開放的なイメージを、その人たちに抱いてしまうかも知れない。


しかし、「彼」はそうではなかったんだ。




「彼」はゲイについてどう思っていたか。

この本の中でいくつか断片的に書かれている部分を書こう。



『ぼくは自分を卑下している。ぼくは自分がゲイであるということが嫌いだ。
その意味で、すごく自己嫌悪している。』

『ゲイやオカマなんて社会的な生物じゃない。否定はしないけど、社会的にはやっぱりだめなんだろうなと思う。だから、チャラチャラしたオカマは大嫌いだ。シリアスでノーマルな人間がやっぱりいいなと思ってしまう。そんな矛盾があるせいか、ゲイである自分自身を自分で差別しているような、村八分にしようとしているところがあるのだ。自分がゲイであることにはいつも罪悪感を感じている。』

『ゲイパレードにしても、ゲイの入隊にしても、両手を挙げて喜べないところがあるのは、やっぱりぼく自身の中にあるゲイへの嫌悪感のせいだと思う。』



「彼」は自分がゲイであるにもかかわらず、
ゲイへの嫌悪感や自分がゲイであることに罪悪感を持っていたんだ。


「彼」にはこういう心の闇があった。自分の中で受け入れられない気持ち、闇を抱えていたんだ。



しかしながら、単にゲイへの嫌悪感や罪悪感を抱えていただけではない。
「彼」は、その嫌悪感や罪悪感を抱えている自分自身にも、嫌悪感や罪悪感を抱き、
しかしその嫌悪感や罪悪感から解放されようとして、あるいは単に性欲のせいもあっただろう、
「彼」は孤独にゲイ街で遊んでいたんだ。



バスハウス(ハッテン場)について「彼」はこう語っている。


『その非日常的な世界では、日常生活でいつも背負っている「クローゼット」という重い荷物を下ろして、気楽な状態に心身を解放することができた。』

『ぼくはコインロッカーで服を脱ぐと、バスタオルを腰に巻いてベットが並んでいる部屋へ行き、端のほうのベットに横になった。薄暗がりの中で絡みあっている何組かのカップルから小さな声が漏れていた。そして、ぼくは誰かがくるのを待った。
だれかがぼくに関心を示すまで、ひたすら待った。』

『ベットで横になっている男のところに、名前も知らない、顔もよく見えない男がやってきて、絡み合い、愛撫して、排出したら去っていく。そんな行為がバスハウスの中では延々と繰り広げられていた。』

『いつもぼくの脳裏を離れない三文字があった。それは「罪悪感」だった。自分で自分の行為に罪悪感を抱き、嫌悪しながら、心の片隅には「男がほしい」と叫ぶ悪魔が住んでいる。この矛盾はどうしても解決できなかった。』

『正常な世界じゃない。それでもぼくはこのバスハウス通いをやめられなかった。』

「彼」は自分に対して罪悪感や嫌悪感を抱きながら、刹那的な行為を繰り返していたんだ。


ゲイ街で遊ぶと言っても、毎日とはいかない。日常生活もある。
しかし、その日常生活でも「彼」は「クローゼット」の状態なのでストレスを感じ、罪悪感や嫌悪感を抱きながらする刹那的な行為によって、より一層「自分がゲイであること」や自分の人生に対する不安や恐怖を感じながら生活していたんだ。


一般の人だと「じゃあそういう行為をやめれば良いじゃん」って思う人もいるかも知れない。
しかし、LGBTの人がこういう状態になると、簡単にやめれないほど心の闇は深いのだと思う。
やめても、それに取って代わる、心の糧になる何かがないからだ。
心の拠り所となる、人生の指針となる何かを誰も教えてくれないからだ。






しかしながら、人間には理性もある。葛藤もある。
「どう生きていけば良いのか」が分からなく、反動として刹那的な行為を繰り返しても、後悔の念にかられるときもあるのだ。



罪悪感や嫌悪感を抱きながら、刹那的な行為をしていた「彼」は何を見ていたのか?

それを現すエピソードがある。



現地での彼の唯一の日本人ゲイの友人O君とウェストハリウッドで6月に開催されるゲイパレードに行ったエピソードの部分だ。
(いつ頃のことか書かれてはいないけど、おそらく88年のクリスマスに感染が発覚するよりも以前のことだろうと思われる。渡米した84年1月から88年までのどこかの時期のことだ。)



O君は日本の某大手銀行のエリート駐在員で、アメリカ人の白人の恋人(男性)がいる。
パレードに行ったときにO君から「今度結婚するよ」と言われるのだ。
その白人の男性との結婚だ。

もうすぐ駐在期間が終わろうとしていたO君は会社を辞めて、ロサンゼルスに残ることにしたと言うのだ。

「会社を辞めて、ロサンゼルスに残ることにしたよ。ぼくはケリー(恋人)から離れられない。仕事は変えられるけれど、人(恋人)は変えられないからね」



当時80年代は今と違って既婚率が高く、男は(女性も)30代になるまでにほとんどの人は結婚して家庭を築いていた時代だった。また長男であるかどうかや、一人っ子であるかどうかも、家の問題や子孫を残すという問題で当時のゲイの人は今よりももっと悩んでいたことがこの本のこのエピソードの他の記述からも分かる。
そういう中でのO君の決断だったのだ。



「ヨースケもステディ(恋人)を探せよ」

O君にそう言われたときのことを振り返りながら、
93年の著者へのインタビューで「彼」はこう語るのだ。




『ステディな人がいたらいいなと考えることはときどきあった。
そうすれば、バスハウス(ハッテン場)通いもやめられたかもしれないし、精神的にも安定したかもしれない。
そして、この病気になることもなかったかもしれない。
でもぼくは恋人を探すすべを知らなかった。心まで入れこめる相手が見つけられなかった。
心を許しても、いつもどこかで逃げ道をつくっていた。ぼくは完全にだれかのものにはなれなかったのだ。
それに、ゲイとして恋人どうしになることは、ぼくの中でゲイの存在を認めたことになる。
ゲイに嫌悪感をもっているぼくには、それを認めることもできなかった。
O君のようにきっぱりと「ゲイの世界で生きていく」と言い切ることはできなかった。』







「彼」の葛藤や後悔がここにあった。



そして、こういう罪悪感や嫌悪感、不安や恐怖、葛藤や後悔の気持ちが、
ますます「彼」を孤独な状況へと追いやり、誰にも本心で話や相談も出来ずに、
「彼」は完全な「ダブル・クローゼット」のまま闘病していくことになるんだ。




こうした状況によるストレスや、また当時のAZTの副作用もあって、
「彼」の免疫力(CD4の値)は徐々に下がっていき、次第に「彼」の身体を蝕んでいくことになる。






『1990年のはじめ頃、手足に、そして背中に薄紫色の奇妙な斑が出るようになった。
ヘルスクラブ(スポーツクラブ)でジャグジーにつかり、シャワーを浴びることがはばかられるようになった。人前に肌をさらすのが怖くなるほど、それは大きくなり、全身に広がっていった。ぼくはエキソサイズして汗だくになった体をそのまま車に詰めこみ、家に帰ってからシャワーを浴びるようになった。』





そして89年1月の最初の通院から約3年数ヶ月経った、92年の3月に
「彼」はドクター・スノウから入院宣告を受けてしまう。

「カリニ肺炎(ニューモシスチス肺炎)の兆候が出ていますね。早く入院したほうがいいわ。」



それから1週間後に「彼」は入院することになる。
(緊急入院ではなく、自分から入院日を決めて入院していく形)








入院する前に、「彼」は意を決して、ルームシェアしていたH君と日本の父親に今までの全てを打ち明けた。




しかしながら、その打ち明けたことが、

「彼」をさらに孤独な状況へと追いやることになってしまうんだ。