「彼」自身の年齢や特徴などはプライバシー保護のためかハッキリとは書かれていないけど、
いくつか断片的に書かれている部分をつなぎ合わせると何となく彼の姿が分かってくる。


「彼」は子供の頃はおとなしい性格で、体育以外の成績はオール5だったようだ。
中学ではブラスバンド部、高校では軟式テニス部だった。


『中学の頃のぼくはなかなかの面立ちの可愛い少年だった』

『(女の子から)ある日ラブレターをもらった。バレンタインデーにはチョコレートまでもらった』

『女の子どうしが「キャー、○○君ステキ」と言ってはしゃぐように、僕は気持ちを共有できるような女友達が欲しかった。でも、そんな感情をわかちあえる女友達はずっとできなかった。』

『女の子の前では男らしく振る舞わなければならないとか、女の子を笑わせる気の利いたジョークを言わないといけないとか、それはぼくにとって大きなプレッシャーだった。
女の子の前では「男らしさ」という仮面を被って彼女たちに接しなくてはならなかった。
男の子の前では仮面を被らずに自然に接することができたのにね。』


「彼」は中学のときに映画館で痴漢にあったみたいで、大学への浪人時代には電車の中でOLにも痴漢された。
サラリーマン時代には(電車によく乗るので)男の人から3度も痴漢にあったと書かれている。
他にもアメリカに渡ってからもスポーツジムでよくダンスしたことを語っていたりするので、
今で言う「細マッチョ」(ゲイ用語ではスリ筋(スリム筋肉))の、スマートな、けっこうなイケメンだったのではないかと僕は思っている。



それが一番よく現れている部分は


『ぼくは手だけは自信がある。ちょっとしたきれいな指を持っているからね。
透き通って骨まで見えそうな白い手。これまで、このぼくの手についてはいろいろな批評がなされた。
はかなげな手だとか、セクシーだとか、クシャクシャにしてしまいたくなるとか、そんなことだ。
どんなに美しい女性の手にも勝てると、僕は自負している』

美しい女性の手にも勝つような手を持った男の人はイケメンに違いない。



「彼」の正確な年齢は書かれてはいないが、何箇所かで『30ウン年間生きてきて』とあり、
また他の記述から考えて、1993年当時でおそらく「彼」は35、6歳だったと思われる。


 
「彼」は大学までに二浪したそうだが、大学に入ってから新宿2丁目のゲイバーで遊ぶようになったようだ。
二浪だから20歳過ぎくらいからだね。
年齢から計算すると「彼」は70年代末に20歳の大学生だったと思われる。

前に「90年代までの入り方」の所で書いたとおり、
70年代に入るとだんだんと新宿2丁目にゲイバーが集まり始め、またゲイ雑誌も出来始めて、
70年代末から80年代初頭には大学生のような若いゲイの子が2丁目に多く遊びに行くようになったと書いたと思うけど、「彼」はまさにその世代だったんだ。


「彼」は大学に入ってから2丁目のゲイバーや周辺のハッテン場に通うようになったみたいだけれど、
「彼」は「外専」(外人専門。外国人が好きなゲイの人。)だったようなのだ。


『よく新宿2丁目のゲイバーに行った。とくにぼくは外人専門のゲイバーの常連だった。
外専バーでの外人たちとのおしゃべりは英語の勉強にもなった。』

『ぼくはとてもシャイな人間なんだ。
近くにステキな人が座っても、僕はかえって意識的に視線をはずしてしまう。』

『ぼくのほうから声をかけるなんて、三十ウン年間(93年当時)生きてきて、一度たりともそんな経験はない。
ぼくはどうしようもなくシャイな人間なんだ。』

『ぼくはもっぱら外専で、日本人と外人の男の割合は一対四という具合。十カ国くらいの外人たちと経験した。
でもほとんどがその場限りの関係だった。』

『たいていの場合、彼らとは1回だけで、次の約束は交わさずに別れてしまったね。
ぼくが甘えるタイプの人間じゃないからだと思う。ぼくは外観は可愛いかったかもしれないけれど、
彼らにとってはけっしてラブリーな男じゃなかったんだな。』

『根がクールなんだろうか、ぼくは人にはなかなか心を許せないし、だれかにたいしてホットな気持ちにもなれない。人に恋したり愛したりとかはできないんだと思う。』




大学卒業後、就職するがサラリーマン生活に嫌気がさし、また同僚の過労死をきっかけに「彼」は会社を辞めた。
(おそらく1年~2年くらいで会社を辞めていると思われる)




そして、「彼」は84年の1月に渡米する。ロサンゼルスへ。

84年の出国時点では「彼」は25、6歳くらいだったろうと思われる。
ここからはアメリカへ渡った後の話になる。




「彼」は観光ビザ(滞在期限6ヶ月)で入国したが、元々アメリカで生活することに憧れており、
また滞在している日本人に観光ビザで入国し、日系の会社(個人事業主など)の所で安い給料で働きながら、
グリーンカード取得を目指す人が多いことから、「彼」もその自由な雰囲気に魅せられ、
そこで働きながらグリーンカードの取得を目指して生活していくことになる。

(不法滞在での不法就労だったけど、「彼」は税金はちゃんと納めていたみたいなんだよね。移民受入れ大国の米国の事情だね。この税金を納めていたことが後々「彼」を救うことになる。)


『そもそもこの旅行は逝った母親(渡米する前に亡くなった)と同僚(過労死で亡くなった同僚)を悼むためのセンチメンタル・ジャーニーのつもりだった。』

『ぼくは渡米する直前まで東京でエンジニアの仕事をしていた。
仕事は朝の9時から夜の9時までの12時間労働だった。休日出勤することもざらだった。』

『アメリカにくる日本人男性の多くは黒い背広姿で腐った社会をはいずりまわるゴキブリみたいなサラリーマン生活に愛想をつかしたり幻滅したりした人が多いんじゃないかと思う。ぼくにとってサラリーマン生活は、油と汗の臭いが染み付いた黒い革靴そのものだった。ぼくは仕事の後のつきあいや接待も好きじゃなかった』

『LAには日本人不法滞在者がたくさんいる。観光ビザで入国してそのまま居座ってしまった連中だ。
日本の湿ったコンクリートの建物の中でうごめく油ぎったゴキブリよりも、LAの真っ青な空の下でカラカラになるまでお陽さまを浴びながら歩き回るゴキブリになりたかった。ぼくはそんなゴキブリになることを決めた。』




「彼」はロサンゼルスで色々な仕事、会社を転々と渡り歩く。
今の日本でいう派遣社員みたいな感じで転々と渡り歩いたという感じだ。

ゲイの人は普通の正社員になるよりは派遣社員として渡り歩くことの方が、気が楽だという人がけっこう多いのではないかと僕は思う。
仕事が嫌いというよりも「サラリーマン」的な人生が表わしている何かがゲイの人には嫌なのだと思う。

ゲイの人は結婚もしないので異性愛者が当たり前のように通る人生設計の道に違和感や嫌悪感を感じるのだと思うんだ。




ロサンゼルスで「彼」は印刷会社での写植の仕事、ランドリー会社での集配、ケータリング会社での宴会やパーティーの請負、車のセールスなどを転々とする。

「彼」の私生活は、自分の母親(渡米する前に亡くなられている)の親友の息子H君(ロサンゼルスに在住しているH君を「彼」が訪ねて一緒に暮らすようになった)とルームシェアして暮らしていた。
(誰かの一戸建ての家を二人で借りて生活していた)



アパートが嫌いだったようで二人で、一軒家を探してロサンゼルス内を何回か引越ししていたようだ。(H君は異性愛者)


彼はH君には自分がゲイであることを隠しながら、仕事をし、休みの日はアメリカの「ゲイの世界」で遊びながら生活していたようだ。

バスハウス(バスはbathで風呂、サウナのこと。向こうのハッテン場のこと)にも月に2回くらいは通っていたようだった。



またロサンゼルスの生活に慣れてくると、休日には「彼」はウエストハリウッドの中心のサンタモニカ・ブルバードという大通り沿いのゲイ街に通うようになる。

そこはカップルでそぞろ歩きをしているゲイたちの姿が多く見られる場所らしい。



『休日の昼下がり、通り沿いのカフェでカプチーノをすすりながらゲイたちをウォッチングしているだけで、ぼくはとてもいい気分に浸れた。』

『よく通ったカフェは「ザ・ギャラリー」というところで、働いている人はもちろん、客もゲイだ。女性客の姿はほとんど見られない。』

『ゲイの店で働いている男たちは、みんなナイーブで優しい雰囲気が漂っている。サービスもいい。
このカフェの店員はみな穏やかで、ぼくはとても安心した気持ちになれた。
だからいつもこの店のテラス席に座って、通りを行き交う男たちを眺めていた。』

『カフェの後は、通り沿いの店をウィンドウ・ショッピングするのがコースだった。ゲイのための本屋やアクセサリー・雑貨店、ビデオ屋、大人の玩具屋みたいな店もある。本屋では店の入り口にゲイのためのフリーペーパーが山のように積まれていて、ぼくはかならずそんなフリーペーパーを数冊持ち帰った。』

『夜はときどき、通り沿いのバーでひとりで飲むこともあった。』


また「彼」はバスハウス(ハッテン場)にも行ってそこで出会った見知らぬ人とセックスもして遊んでいた。





しかし仕事がある日はしっかり仕事をし、「不法滞在」での就労だったけどちゃんと税金を納めて、また夜にはビジネススクールに通って英語の勉強をしたり、スポーツジムにも通っていたようだった。



「彼」は休日にゲイ街で遊ぶこともあったが、基本的にはグリーンカードの取得を目指して仕事をし、充実した日々を送っていたようなのだ。





この頃のことを「彼」はこう語っている。

『ぼくたち(H君と二人で)が借りることになった家も、オーナーは(自分たちと同じ)日本人だった。
ベットルームが三つある広大な家で、裏庭にはプールやジャグジーまでついていたので、なかなかリッチな気分に浸れた。ぼくは毎日仕事から帰るとプールで水を浴び、ジャグジーで疲れた体をほぐした。
それはぼくが夢に描いた西海岸ライフだった。』





色々な仕事を転々としながらも充実した生活を送り、ロサンゼルスでの生活の月日が流れた。






しかし入国した84年1月から約5年経った、88年のクリスマスに
彼はHIV陽性であることを知らされる。