1993年3月の半ば、二度目のカリニ肺炎(ニューモシスチス肺炎)が「彼」を襲った。


『肺炎になる十日ほど前から微熱がつづいていたから、もしやと思っていたけれど、また前と同じように咳や痰が出はじめて、胸がしめつけられるようになった』

「彼」はここから1ヶ月間入院することになる。前回1年前の92年3月のニューモシスチス肺炎での入院は1週間で「彼」は回復し、退院することが出来たが、やはり免疫力が相当弱ってきていたので、なかなか回復しなかった。

この時点で「彼」のCD4の値はゼロだったのだ。

『肺の点滴は、ぼくの体調によって、五時間おきに一時間ずつ、一日4回もおこなわれた。この点滴では、吐き気と眠気を催した。一日に一時間おこなう目の点滴では体がだるくなり、体力が落ちる感じがした。また、体液中の塩分が不足しているらしく、目や肺の点滴だけでなく塩水も点滴された。長い点滴のために、頭は痛くなるし、口の中が毒々しい甘みでいっぱいになった。トイレも近くなり、三十分に一度のペースでぼくはトイレに通った。もちろん、重たい点滴の器械を引っ張りながらだから、大変だった』


『入院して一週間くらいたった頃、ぼくは急にものが食べられなくなった。
食事をしても、すぐに吐いてしまった。体内で栄養分の消化・吸収がうまくできなくなったのだ。肺は圧迫されているように苦しかった。全身がしびれ、何かに強く締めつけられているような圧迫感も感じた。視界も霧にかすんだようにぼやけていた。ぼくはその日、石のように身を固くして、一日じゅう動かないでいた。こんなふうな状態が二、三日つづいたが、それでも体は回復しはじめ、食事も喉を通るようになった』


『ところが、いったん食べられるようになったのも束の間、ある朝、今度は体がガタガタ震えだした。寒いわけではなかった。ただ、全身がけいれんするように小刻みに震えた。顔も、歯に注射を打った後で膨れあがるように麻痺した感じになった』

またそれから数日後

『ぼくは急に寒気がした。暖かな日だというのに、信じられないくらい寒気を感じた。ナースがブランケットを持ってきてくれた。五枚かけても寒さはいっこうに引かなかった。室温を上げてもらったけれど、どんなに暖かくしてもガタガタ震えた。ナースは解熱剤のタイレノールをぼくに飲ませた。
ところが、そのせいかどうかはわからないけど、次には熱さが襲ってきた。体じゅうが燃えるように熱くなった。体温は四十度まで上がった。ナースがアイスパッチをたくさん持ってきて、ぼくの体に乗せた。でもそれも一時間もすると溶けてしまった。
いったい、ぼくの体はどうなっているんだ。こんな寒気と高熱を日に四度も繰り返した』


『ぼくはエイズというのは病気のオンパレードというか、病気のフルコース・メニューだと思っている。次から次へといままでに体験したことのない病気がやってくる。
このぶんだとぼくは地球上のすべての病気を体験するんじゃないだろうか』


『飲まなくてはならない薬の数は増えていくばかりだった。薬漬けだった』






こういう入院生活の中で「彼」はこの本の著者の取材の「情熱」に負けて、取材を受けることを承諾する。




そして、1ヵ月後に「彼」は退院することになる。
「彼」は1993年3月半ばから入院し、4月中旬に退院したのだけれども、前回92年の初めての1週間ほどの入院時とは違って、完全な体調を取り戻したわけではなかったのだ。

退院日、ダニーは車で迎えにきていた。



『ぼくは病院の一階のファーマシーで薬の処方箋を見せ、薬をもらって、病院の前に停まっているダニーの車に向かって歩いた。百メートルくらいだったけれど、そんなに長い距離を歩くのは一ヶ月ぶりだった。車にたどり着いたときにはもう息切れしていた』


『二階のぼくの部屋は以前のままだった。ダニーが積んでおいてくれた日系の新聞の厚さが、ぼくが入院していた月日の長さを物語っていた。ぼくは部屋の入り口あたりに殺菌スプレーをかけると、ベットに少し横になった。病院から家までたどり着くのでさえ、退院したばかりのぼくには重労働だった』


やっと退院して自分の部屋に戻った「彼」だったが、このときベットで横になって、少しばかり寝て、そこから起きた時に、自分の状態が変だということに気づく。

『起きてみると、ぼくはすぐに自分が何かおかしいことに気づいた。ダニーとの会話が何か変だった。なんの変哲もないことを話していたように思うけれど、彼の問いかけにすぐに答えられない、つまり反応できない自分を発見した』

『ぼくはやっぱりいつもの自分とはちがうと思った。時計を見ると、もう何十分も話したと思ったのに、まだ五分しか経過していなかった。時の流れまで、ぼくにはゆっくりと感じられた。それに、何かをした後、すぐに次の行動に移れなくなっているのに気づいた。たとえば、“次には○○をする”といちいち頭の中で自分にゆっくりと言い聞かせないと行動できなくなったのだ。次はお茶をいれるとか、次はテレビをつけるとか、ふつうならさっさとできる行動のひとつひとつにたいして、ぼくはわざわざ考えてから実行に移していた。
ぼくは頭がいかれてきたのか。それは実際、ぼくにとって最大の恐怖だった』



「彼」は自分のこの状態をダニーに言ったが、
ダニーは「新しくはじめた薬の副作用じゃないのか」と言ってあまり気にも留めなかった。


「彼」はカウチソファに横になった。
そして、寝ておらず頭が起きている状態で、「彼」は夢ではなく、幻覚を見てしまう。

天井に穴が開き、亡くなった「彼」の母親がその穴から覗き込んでいる幻覚を見たのだった。
こういう幻覚はAZTやDDIの副作用なのか、それとも何らかの脳症の前触れなのかはよく分からないけど、とにかく「彼」は幻覚をみたようなのだ。

エンジェルスインアメリカというドラマも、起きているときに見る幻覚によってストーリーが展開していく話なのだけれども、当時のエイズ発症者にはこういう現象があったのだろうか。

そして意識が朦朧とする中で、「彼」は例の日本人エイズ・カウンセラーに電話をしておかしなことを言ったり、救急車を呼ぼうとして消防車を呼んでしまったりした。
そんな「彼」の状態を見て、さすがに今度はダニーもおかしいと思い、すぐに「彼」を病院に連れて行った。

緊急で行った病院で「彼」は再び入院することになり、CTスキャナーで脳波を測定し、輸血した。
しかし、特に異常は見つからずに、数日後、「彼」は回復し、また退院した。
「彼」の認知機能も元に戻っていた。



この本ではこの出来事の後に、「彼」はダニーと大喧嘩をして、家を飛び出し、
ソーシャルワーカーの紹介で、エイズ患者が暮らすホスピスで生活していくことになる。


退院してダニーと一緒に暮らす家に戻った「彼」だったけれど、
ダニーは相変わらず、奇妙な行動をしていたんだ。


ついにダニーは「彼」と車で出かけているときに、街で見かけた若い黒人のホームレスの男に声を掛け、車に招き入れしまった。そして、ダニーは「彼」に「古くからの友人なんだ」と言ってその若い黒人のひと男を家に住まわせることにんだ。

「彼」には、どう考えても古くからの友人ではなく、ダニーとその黒人の男はその日初めて会った関係に見えた。
何日か、その若い黒人の男を家に泊めていたとき、「彼」は夜に目が覚めて階下に水を飲み行った。
リビングに降りてきたとき、ダニーとその若い黒人の男は裸で抱き合って行為をしようとしている最中だった。



「彼」は激怒した。


『ぼくは発狂したように大声で怒鳴り、叫びつづけた。ダニーの行為はぼくを発狂させんばかりだったのだ。男はぼくらの大喧嘩に驚いたのか、そそくさと家を出て行ってしまった』



この出来事のあと、「彼」とダニーは口を聞かなくなる。

「彼」が熱を出し、家で寝ていてもダニーは何もしてくれなかった。

しかし、家賃の支払日になってダニーは、身体が弱っている「彼」を呼び出して、いつものように「優しく」食事を提供してきた。ダニーが作ったパンケーキだった。

二人で食事をしていたときに、ダニーは家賃の話をしだした。
「彼」は以前にダニーに貸していた800ドルのことがあったので、『そこから差し引いてくれ』と話した。

すると、ダニーはパンケーキにナイフを入れる手を止めて、ナイフを乱暴に皿にたたきつけると、紙とペンを持ち出してきて、何かの表を書き出した。

「ヨースケ、ちょっと見たまえ。縦の項目が、わたしがこれまでヨースケにしてやったことだ。横の項目が日付、その交差するところが料金だ。たとえば、わたしが一回君を病院に連れていってあげるたびに、わたしの時給とガソリン代を含めて総額75ドルがかかるんだ。わたしはもう何度も君を病院に連れていってあげただろう?
それに、朝食や昼食だって作ってあげたから、それにもわたしの時給がかかっている。ショッピングや銀行にだって連れていってあげたじゃないか。それで計算してみると、君はわたしに4000ドルの借りをつくったことになるんだよ。タイムイズマネーだからね。君はこの一年間、ずいぶんわたしの貴重な時間を使ってきたんだよ。ヨースケはそれでも800ドル返せというのかい?ちゃんと今月の家賃も払ってくれよ」



ダニーはまるでタランティーノ映画に出てくるキャラクターのベトベト、ネチョネチョしたセリフのような言葉を吐いて、弱っている「彼」に家賃を要求してきたんだ。




『両肩がガタガタと震えだして、止まらなかった。ぼくはダニーという悪魔が怖くてたまらなくなった。結局、ときどき彼がぼくに見せた優しさみたいなものは、すべてお金に換算できるたぐいのものだったのだ。彼のぼくにたいする行為はすべて、お金のためにやってきたことなのだ。ぼくはダニーを恐れ、憎むと同時に、そんな男と一年間も暮らしてきた自分が情けなく思えた。
そして、親父も憎んだ。あのとき親父が「早く出ていけ」とせかさなければ、もっといいルームメイトを見つけることができたにちがいない。あのとき、ぼくには選択の余地がなかったから、こんな悪魔と住むことになってしまったんだ』



「彼」は翌日、この家を飛び出した。



右目が見えないのに、車を運転して、ソーシャル・ワーカーのスーザンもとに向かったのだ。


『いつか彼にお金を吸いとられ、身ぐるみはがされて、はてには殺されるんじゃないかと思ったのだ。ぼくはただひたすらダニーから逃げ出したかった。ダニーを振り切り、ぼくは狂ったように車を発進させた』


『「スーザン、たすけて」それだけ言うのが精いっぱいだった。ぼくはそのまま気を失うように、彼女の胸の中に崩れ落ちてしまった。彼女の白いブラウスはすぐにぼくの涙で濡れた。ぼくは泣きながら、ダニーについてのもろもろの事件をあらいざらい彼女に喋った』


そして、ソーシャル・ワーカーのスーザンに事情を話すと、彼女はホスピスを紹介してくれた。(このとき著者も連絡を受けて、「彼」に会いに行っている)




この本の最後、ほんの数ページは、このホスピスでの生活のことが書かれている。


何時に起きて、薬をのんで、どんな食事をして、などだ。

そして、この本では「ヨースケさんは元気になる日を夢見て、闘病している」という形で締めくくられている。






そして、巻末で著者である彼女はこう書いている。



「日本にはホモ・フォビア、エイズ・フォビアがたくさんいる。ホモについて、あるいはエイズについて知識がないのに、ただ恐れ、忌み嫌っている人々だ。いまだにホモは女装する女っぽい、いわゆるオカマと言われる人々のことだと思われていて、実際には数多いクローゼットのゲイたちへの理解はないに等しい。
しかし、世の中にはほんとうにさまざまな人がいるのだ。そして一人ひとりがみな個性をもった、ちがった存在である。そのなかで、同性を愛する人がいても少しも不思議ではない。

こと横並び意識の強い日本では、みなと異なる特異な存在にたいして排他的になる。みなと同じユニフォームを身につけなくてはならないという意識から、流行ばかりを追随する、アイデンティティの欠如した国民性ができあがっている。そんな没アイデンティティの日本では、異質な石ころははじき出されるばかりである。

いっぽう、異質な石ころばかりが集まったアメリカには、各人は最初から異なる存在であるという前提がある。
―中略―
アメリカには、ほんとうにさまざまに異なる個人がいるから、そこで必要になるのは、それぞれの異なる個人を公平に見ること、つまりフェアネスだ。そして、これこそ日本に欠けているものだとわたしは思う。

同じことが、エイズの問題にも当てはまる。感染者・患者を日本社会は異分子扱いしてしまう。実情を見もしないで、ただひたすら忌み嫌い、怖がってしまう。異なる個性を公平に見つめるフェアネスの視点がないからだ。
―中略―
わたしはこの本を通して、読者がゲイやHIV感染者・エイズ患者への理解を深めてくれることを願っている。ゲイでありエイズ患者の代表である、この本の主人公の洋介さんを読者の身近な知り合いと考え、これを機会に、日本のゲイ社会や、エイズと闘って生きている人々への理解を深めてくれたらと願ってやまない。」



彼女のこの思いが、
「彼」が「あなたの情熱には負けたよ」と言って取材を引き受けた理由となったのだろうと思うんだ。





しかし、ここで僕が個人的に気になることを書こうと思う。
この本では書かれていないことも含めてだ。

退院後の「幻覚を見る」箇所から、ダニーとの大喧嘩、ホスピスに行く所で、この本は終わるのだけれども、何か様子が変なんだよね。

というのも、この本の最初からの4分の3までの部分(93年3月の入院時までの話)と残り4分の1の「退院後の部分」では、なにか「彼」の性格が変わってしまったような印象を受けるんだよね。それまでは「穏やかで優しい感じの」性格の人のような印象だったのに、退院後からの部分では、少し「敵意を持った人」のような印象を受けるんだ。

「4分の3までの部分」は「93年3月の入院時(1ヶ月ほどの入院)」に著者がインタビューしたものだと思うのだけれども、残りの部分である「退院後のこの幻覚を見る箇所」からは、もっと後日取材したものをまとめた部分なのではないかと思うんだ。(おそらく93年4月末以降の「彼」がホスピスに移ってからの取材)


つまりこの本の取材は一日では終わっておらず、何日にも渡ってインタビューしたのだと思うけれど、そのインタビューの最中にも「彼」の状態の変化があり、当初、著者が予定していた同性愛者でエイズ患者の今までの経緯やどういう入院生活をしているのかを紹介するこの本の範疇には入らない出来事が、
著者が「彼」にインタビューし、そしてそれを文章でまとめながら、何日にも渡ってさらにインタビューしていくことと、同時並行的に進行していったのではないかと思うのだ。


そして、そのことは、この本には書いていないのだ。

この本のはじめから「4分の3くらいの箇所」は93年3月の入院中に著者が「彼」にインタビューしたことをまとめたものだろうと思うのだけれども(インタビュー日など詳しくは書かれていない)

子供の頃の話や大学時代に2丁目で遊ぶようになった話、渡米したときの話、HIV感染が発覚したときの話、その後何を考えて生活していたかの話やH君や父親への告白、エイズ発症のときの話までのことだ。


そして、「彼」は1993年3月の半ばから1ヶ月間入院し、4月の中旬くらいに退院することになる。
この本の「残り4分の1の部分」は、退院後の「彼」のことが少し書かれている。

新聞などの取材なら一日の取材で終わるのだろうけど、これは本の形なので、何日にも渡り著者がインタビューしたのだろう。「彼」の体調もあるので、一日に少しずつインタビューしていったのではないだろうか。

著者は質問項目を考え、彼にインタビューし、終わると自分の家に持ち帰って文章に起こし、また質問内容を練るという感じだったのかも知れない。
これはぼくの推測なのだけれども、当初の予定ではこの3月の入院までの話をまとめることで著者は本の完成を目指したのではないだろうかと思うのだ。

しかし、「彼」はエイズを発症した段階にいたのだ。
日に日に「彼」の状態は変わっていっているのだ。

そして、この「幻覚を見た箇所」(93年3月からの入院からの退院時の4月)あたりから「彼」の性格が変わったのではないかと思うんだ。

93年3月の入院時の「彼」のCD4の値はゼロだった。
CD4がゼロになると、日和見感染症の中でも、より重い症状が出てくる可能性が高い。

ニューモシスチス肺炎などは抗生物質の点滴治療で治るだろうけどれども、CD4がゼロにうなってくるとトキソプラスマ脳症のような様々な脳症が出てくる可能性が高いのだ。

人それぞれ体質が違うので、一概には言えないし、
CD4がゼロになっても何年も何も症状が出ない人もいたらしい。

しかし、やはり免疫機能が破壊されているので、多くの場合は同じように症状が出てしまう。脳症の場合、一番重いのはHIV脳症で、言語障害や歩行障害、さらには意識不明の状態になってしまう。
トキソプラスマ脳症でも進行すれば同じようになるけれど、初期の段階では、認知機能障害や「軽い性格変化」があるようなのだ。

この「軽い性格変化」というのは、それまで温和だった人が急に怒りっぽくなったり、また真面目な生活をしていた人が急に旅行などに行ったりして散財するようになったりなどの変化があるようなのだ。感情や言語をつかさどる脳の機能に影響が出てくるようなんだよね。

「彼」の場合、この本の残り4分の1の部分(退院してから、幻覚を見た時)から、少し、性格が変わったのではないかと思うのだ。

確かにダニーと大喧嘩したのは、ダニーの人間性にも問題があっただろうとは思うのだけれども、「彼」がそんなに大声を出して叫ぶような性格だったのかは、この本の「最初からの4分の3までの部分」からは僕は想像できないのだ。

まぁ、もっとも僕は医者ではないので、勝手なことは言えないけれども、この本を何回か読み返したけど、入院前の部分と退院後の部分では、「彼」の性格が違うような気がしてならない。

「彼」は前に書いたけど、父親が言ったことに対して「親父は相当に苦しんだんじゃないかと思った。ぼくは親父を責める気はなかった。むしろ、こんな息子を持ったかわいそうな親父を抱きしめてやりたいくらいだった」と語っている。これはおそらく93年3月の入院時のインタビューで言ったことだろうと思うんだ。

しかし、退院後の部分ではダニーの住むことになったことについて触れ「そして、親父も憎んだ。あのとき親父が「早く出ていけ」とせかさなければ、もっといいルームメイトを見つけることができたにちがいない。あのとき、ぼくには選択の余地がなかったから、こんな悪魔と住むことになってしまったんだ」と語っている。

この2つは違う側面を語っているので比較が間違っていると言われそうだけれども、しかし後者の方は明らかに敵意がにじみ出ているような気がしてならない。

「彼」はこんな性格だっただろうか。


巻末のエピローグで著者も次のように語っている。

「彼」の病院への定期健診へ著者もついて行ったときのことだ。

「月に1回は網膜の検査もおこなっている。スムーズに診察が終わることもあれば、半日つぶれることもある。
待たされる時間があまり長いと、彼はひどくいらいらして、
あるときは胸部レントゲン写真用の検査用紙をこなごなに引き裂き、「こんなもの撮る必要はないんだ。薬さえくれればいいんだ」と言って、検査を放棄してしまった。また、網膜の検査のとき、診察椅子で一時間近くも待たされた彼は「早くしろっ」と日本語で大きな声をあげた。」

「彼」のこういう行為について著者はこう書いている。

「わたしの見るかぎり、彼は鬱傾向が強いと感じた。もちろん、病気をわずらっている人はたいていそうだと思うが、ソーシャル・ワーカーのスーザンもそのことを心配していた。精神的なストレスは、免疫機能を低下させて肉体をさらにむしばみ、悪化した肉体はさらに精神をむしばんでしまう。何という悪循環か。だからこそ、患者を精神的に支えることがエイズには必須なのだ。」

著者の言うように、「彼」が突然に怒ったりする行為の背景には精神的な鬱傾向の症状があったせいだったのか、あるいは何らかの脳症の症状の前触れだったのかは、もはや知るすべはない。


しかし、医学的に「彼」がどういう状態だったのかが重要なのではない。

重要なのは、孤独に闘病していた「彼」が何を思い、何を考え、そして何を見ていたのか。



最後のホスピスの部分において(この最後の4分の1の部分はおそらくホスピスでのインタビューだと思われる)
注意深く読むと、「彼」の「穏やかで優しい性格」の側面と「敵意に満ちた」側面が交差しているんだ。
(おそらく著者が分からないようにうまくまとめていると思うのだけれども)(「彼」はホスピスで生活し、いつもの病院へ通院していた。)


「穏やかで優しい性格」の側面が現れている部分では、「彼」はアメリカという国に感謝している。
不法滞在者の「彼」でも、政府や郡は医療的にはしっかりサポートしてくれていたからだ。

『ぼくがなぜアメリカで闘病しているのかと言えば、それは「安心感」があるからだ。アメリカにいると安心できるのだ。もちろん、ここにだってエイズ差別はある。けれど全体的に見れば、この社会はエイズ患者に優しい。両手を広げて、こんなぼくでも受け入れてくれる』

そして、「彼」は病院のスタッフたちへの感謝も忘れない。

ベテランのナースのパティについては『彼女はまるでぼくら患者のお母さんのようだ』と言い、
ソーシャル・ワーカーのスーザンについては『彼女はいろいろな支払いの問題の面倒を見てくれる』という。

担当医のドクター・スノウについても語っている。

『そう言えば、ぼくはこの前、病院のエレベーターの前でしゃがみこんでいる彼女を見かけた。彼女の隣にはまだ十代くらいのメキシカンの患者が倒れるように座り込んでいて、彼女はその患者を一所懸命なだめているようだった。ようやくなだめ終わった彼女は、よいしょと腰を上げようとしたが、今度は彼女のほうが腰を抜かしてしまったようで、うまく立ち上がることができなかった。すぐに、近くにいたナースが彼女に駆け寄り、ナースに支えられながら、やっと立ち上がることができた。彼女も大変なんだ』


『ぼくは彼女たちに会うのが楽しくてたまらない。病院の人々との触れあいは、かけがいのないものだ。彼女たちがぼくにくれるもの。それは惜しみないスマイルと、スキンシップだ。彼女たちは励ますようにぼくの肩を抱いてくれるし、両手で優しくぼくの手を握ってくれる。
ぼくの心は、通院を終えた後、春の日差しを浴びながら眠っている猫のように温かになった』

「彼」はホスピスで闘病生活をしながら、支えてくれる医療関係者へ「温かなまなざし」を持っていた。
そして、働いていた健康だったときの自分を思い浮かべながら「またスポーツジムでの女の子とのダンス」をすることを夢に見ていた。

『アメリカにきて、住みはじめて、職を転々とし、感染がわかって、こんな人生を送ってきたぼくにも「希望」はあった。しかし、発病してしまって、この「希望」はある意味でペンディングされてしまった。もし、何年か後に根治薬ができて、あっという間にこの病気が回復してしまったら、ぼくはどうするだろう。そうなったら、またゴキブリのように働かなくてはならなくなるんだろうな、でももうあんなふうに働くのはいやだな、なんて思ったりする。どんな仕事に就くとしても、ぼくはかならず何かしらのボランティアだけはしたいと思う。それがぼくに優しくしてくれたアメリカ社会への恩返しだと思うから』


そこには「彼」の優しい人柄があった。





しかし、「敵意に満ちた」側面も断片的に書かれている。

『やはり、免疫機能が低下しているためなのか。とにかく体じゅうが痛みはじめたのだ。
肩も背中も頭も、すべてが』

『いざとなると、どうしても二の足を踏んでしまう。やっぱりぼくは、自分が死ぬ、死ななければならない、ということを信じたくないのだ』

『体の調子はそれほど、人の心をジキルとハイドのように極端な状態に変えてしまえるものなのだ。病気は人の心をすさませ、精神までおかしてしまう。それがこの病気のいちばんの恐ろしいところなのかもしれない。これほど精神的な支えが必要な病気はほかにないのではないか』

『体じゅうが痛くて苦しいときは、まわりの人々のことを何かにつけて疑い、不信感を持ち、憎んでしまう』



そうなのだ。「憎んでしまう」とハッキリと書いてあるのだ。




93年に、こういう状態で「彼」は医療的なサポートは様々な人から受けていたが、
本心を語れるような友達は誰一人おらず、孤独に闘病していたんだ。




「彼」は、この後どうなったのか。
この本では、そのことは一切書かれていない。



出版された当時に、この本を買った人や、あるいは今この本を買った人の中には、
この後、「彼」は回復したのか、またHAART療法が開始される90年代末まで生きていたのか、ということを知らないと思う。

僕も気になったので、ネットで調べてみた。



すると著者のブログにたどり着いた。




ブログの中で著者は、
「彼」は「この本が出版された93年の12月の直前に亡くなられた」ということを述べている。





本の印刷などの関係で、訂正が間に合わないほど、直前の出来事だったようなのだ。
おそらく93年の10月下旬から11月に「彼」は亡くなられたということなのだ。



もう少し、発症が遅く、HAART療法の開始に間にあっていればと思うと、残念でならない。


この本は、アメリカに渡った、ある日本人で、同性愛者でHIV感染し、エイズを発症した「彼」への著者によるインタビュー内容を再構成し、「彼」の一人称での「告白の形式」で語られている内容でまとめられたものだ。



この本の最後の巻末数ページにおいて、著者である彼女の文章で「エピローグ」が書かれている。
そこには「彼」へ取材することになった経緯などが書かれている。

あまり自分のことは書いていない彼女なのだが、このエピローグをよく読むと、意外な事実が分かってくる。

93年の9月30日付けで書かれたエピローグの中で、彼女は

「わたしは、週に1回、彼を病院に連れていっている。片目で車の運転もままならないだろうし、バスを乗りついでいくのは体力の衰えた彼にはきついだろうと思うからだ。」

と書いている。

彼女は93年3月に入院中の「彼」から取材OKの返事をもらい、取材していくことになるのだが、その入院時の取材や、退院後のホスピスでの取材は夏には終わっていたはずなのだ。

しかし、彼女は取材活動以降も「彼」を車で病院まで送り迎えしていたのだ。
ここに彼女の優しさがあった。

「彼」には医療的にはサポートしてくれるスタッフがいたが、本心を打ち明けられる友達は誰もいなかったのだ。
彼女は、そんな「彼」に話を聞き、また取材が終わっても、付き添ってくれていたのだ。

このことから彼女は、孤独に闘病していた「彼」にとって、心の支えになった「友人」だったのではないかと僕は思うのだ。

ゲイであってもゲイのHIV感染者やエイズ発症者には当時も今も距離を置くと思う。
口ではどう言うかは知らないけれど。

またゲイのHIV感染者やエイズ発症者自身も(ゲイの患者だけではないだろうけど)、周りのゲイの人に打ち明けづらかったと思うのだ。これは当時も今も変わりはないのかも知れない。

そんな中で、ゲイではない著者である彼女だけが、「彼」の話を聞き、最後まで付き添っていたのだ。


僕は、この著者と「彼」との、「人としてのつながり」こそ、
この本のもっとも重要な、隠れたテーマなのだと思うのだ。





そして、「著者の情熱と優しさ」が、誰にも本心を語らず孤独に闘病していた「彼」の心を開かせ、
彼女に対して本心を語ったものが、この本になったのだ。










88年のロサンゼルスの空の下で、一方で「彼」はクリスマスにHIV感染を宣告され、
一方の彼女はHIV感染者、エイズ患者が集うミーティングに見学に行き、それを日本へ報道しようと日本の週刊誌に持ちかけたが断られた。

それから4年が経った、92年に「彼」はエイズを発症して最初の入院に入っていた。

彼女はロサンゼルスの地元メディアから依頼されて、ロサンゼルスにおける「日本人とエイズの状況」を取材することになった。

あるときに、彼女はある病院で日本人専門にエイズ・カウンセリングしている人と知り合い、「彼」の話を聞くことなったのだ。

(エピローグの彼女の言葉から)



「彼のもとには、ロサンゼルス在住の日本人がエイズの相談に訪れ、エイズ検査を受けていた。
彼はエイズに関する基礎知識をわかりやすく説明してくれるとともに、
彼が世話をしている日本人患者の話もしてくれた。


そのなかで、ひどくショックを受けた話があった。



ある日本人患者は、実の父親に「青酸カリでも飲んで自殺してもらいたい」と言われたというのだ。


その話は長いあいだ、わたしの頭にこびりついて離れなかった。



昨年の11月(92年の11月)、わたしはこの患者と電話で話す機会をもつことができた。

彼との一時間の会話を通じて、わたしは彼が多くのことを訴えようとしているのに気づいた。
彼はじつによくしゃべったのだ。
それは語り尽くせない思いの多さとともに、ふだん彼がだれとも話していないことをあらわしていた。


わたしは彼の電話の声から、孤独と悲しみ、そして淋しさのようなものを感じとった。




そして、十二月、わたしはカウンセラーを通じて彼にクリスマスカードを送った。

返事はなかった。


今年(93年)に入ってからは“本を書きたい”旨の手紙を送った。

返事はなかった。

二通目にも返事はこなかった。



そして、三通目。わたしは半ばあきらめていた。





しかし、ある日、プレスリーの切手が貼られた彼からの手紙が届いた。

そこには、わたしの申し出について迷っていると書かれていた。
プライバシーの問題に関して、日本のマスコミには不信感を抱いているというのだ。




わたしは彼の不安を取り除くために、四通目の手紙を送った。







三月も半ばを過ぎたある夜、カリニ肺炎で入院中の彼から電話がきた。





彼は「あなたの情熱には負けたよ」




と言って、本の出版の話を受け入れてくれた。







翌日、わたしは彼の入院しているエイズ病棟を訪れた。


彼は痩せていた。


それでも瞳はキラキラと輝いていて優しかった。

冗談を言うと、舌をペロリと出して大きく笑う笑顔も素敵だった。


両方の手は荒れていたが、温かだった。                      」







著者のHIV感染者、AIDS患者の現状を取材しようという情熱と、そしてまた彼女自身の優しさが、
閉ざされていた「彼」の心を開かせたのだ。


この本は圧倒的な過酷な状況にいた、当時のHIV感染者、エイズ患者の貴重な証言の記録としての本である。



そして、ロサンゼルスの空の下、HIV感染者、エイズ患者への取材に駆け回っていた若き日の著者の、
世に送り出した初めての本になったのだ。










それから20年経った。


この本に書かれている状況と違い、現在においては、
医学的にはHIV感染者、エイズ患者を取り巻く状況は、劇的に変化した。

HAART療法によって、免疫力(CD4)を回復させることが出来るようになったからだ。
もはやHIV、AIDSは「いずれ死んでしまう病気」から「コントロール可能な病気」へと変化した。

また昨年、脊髄の手術によって、HIVウィルス自体が体内から消滅したケースが2件でてきた。遺伝子治療の研究も始まった。

完治の時代は明らかに近くなっているのである。



今、ぼくたちは20年前に亡くなった「彼」や、当時の他のHIV陽性者、エイズ患者たちが、
待ちわびた、夢に描いた未来に生きている。



しかしながら、変わらない部分もあると思う。

その変わらない部分というのは、医学的なHIVウィルスの話や、エイズの症状の話ではなく、人間の心の部分の問題だ。

世間一般の人のHIV陽性者、エイズ患者への認識や偏見、異なる他者への「想像力の欠如」など、人間の本質に関わる問題のことだ。

またHIV陽性者、エイズ患者自身の(とくにゲイの人の)、誰にも本心を打ち明けない「ダブル・クローゼット」の状態なども、今も昔も変わらないところなのかも知れない。






「ダブル・クローゼット」に身を包んで、アメリカで孤独にエイズと闘った「彼」は
何を考え、何を思い、何を見ていたのだろうか。








「彼」のことを

そして、取材に駆け回った若き日の著者の姿を



それから、「彼は何を見ていたか」



この問いかけを 僕は いつまでも忘れない